【感想】先人たちの底力 知恵泉 荻野吟子 女性医師の道を切り開け!

荻野吟子(おぎのぎんこ)さんは近代医学で日本初の女性医師(医師免許取得)となった方らしいのだけど、明治初期に女性が医者になることの難しさがよくわかる番組だった。
この番組を見て近頃話題のジェンダー問題は本当に根深い問題だなと痛感した。日本はジェンダー平等ランキング?が150ヵ国中120位みたいなことがよく報道されている現代でも明治初期とは比べ物にならないほど改善はされていて、それでもまだまだ課題だらけってことなのだと思う。

ちなみにジェンダーは社会的性別を意味しているので生物的性別とは異なる。日本ではジェンダー問題と言いながら生物的性別(セックス)のことにしか言及しないことがよくあるので注意が必要。
留学していた時にタイ人の性別がたくさんあることを聞いてびっくりしたし、日本では見かけない光景だったので内心異様な目で見てしまったことがあって、自分も偏見を持っていたことに嫌悪感を抱いたことがある。おじいちゃん政治家たちの差別発言のニュースなんかを見ながら、文化的な問題の根深さは世代交代するまで無理なんだろうなあと自分事化して感じた瞬間だった。

以下、視聴メモ。

小学生女子の希望する職業ランキングで1位のパティシエに次いで2位が医師(2020年4月 アデコによる調査。3位: 先生/看護師、4位: 警察官・刑事、5位: サッカー選手)
女性医師には女性特有の悩みに深く共感してくれるという期待がある。今や身近な存在だが、近代医学で女性が初めて医師になったのは130年前のこと。明治時代に入り身分の違いがなくなり、言論の自由を手に入れた頃、医師の社会は男社会。(ここでいう医師とは明治政府によって与えられる医師免許なので男性医師もほぼ同時期だという点が言及されていなかった。)

医師=男性ということに多くの人は疑問を持たなかった。そんな中で日本で初めて医師の資格を得た女性が荻野吟子(1851~1913)だった。若くして夫から淋病を移され病院で男性医師の検査を受ける。女性は男性に肌を見せてはいけない時代なので屈辱が大きかったことから医師を志す。
しかし明治に入っても女性は学問の場が限られていた。その上、女性が医学を学べる学校がなく、医師免許取得の受験資格すらなかった。そうした困難を乗り越えて国家資格を掴む。

荻野吟子の出身は武蔵国俵瀬(今の埼玉県熊谷市)。五女として生まれた。17で上川上村の名主稲村貫一郎との縁談話が舞い込んだ。明治元年に結婚するが夫から移された淋病で体調を崩して2年で離婚。西洋医学では一流と言われた大学東校(だいがくとうこう、現在の東京大学医学部)付属病院を受診した。医師や医学生など男性ばかりに囲まれた診察で、当時女性は男性に肌を見せることが不謹慎とされた時代に下半身を男性に見られるという耐えがたい屈辱を受けた
この病気の辛さは女性にしかわからない。が、男性医師しかいないので治療を受けない人もいたという。男に病を移されて満足な治療を受けられずに命を落とすのはおかしいと、吟子は2年におよぶ入院生活の中で女性医師の必要性を感じて医師を志した
吟子は熱意を見せて人を頼ることで数々の逆境を跳ね返していく。退院後、動き出すも女性が勉強できる場所がなかった。結婚していた時に知り合った画家の奥原晴湖(せいこ)に「女性に学問を教えてくれる場所はないか」と相談した。木戸孝允や山内容堂(ようどう)と交流のあった晴湖は熱意に共感して国学者 井上頼圀(よりくに)を紹介した。井上の塾 神習舎(かみならいや)に通う。その後お茶の水女子大学の前身である東京女子師範学校が明治8年11月に設立されると第一期生として入学する。同期は74人いたが授業は厳しく4年後吟子が卒業した時にはわずか18人だった。
どんな女性が学校に集まってきたのか。勉学をしたい、社会に出たいという自立志向を持った人たちだった。吟子はトップの成績で卒業。教授(永井久一郎)に医師になりたいと直談判した。永井が紹介したのは後に陸軍軍医総監にもなる石黒忠悳(ただのり)。石黒は吟子のためにいくつもの医学校と交渉。1校だけ応じてくれた。

当時医学校に女性はいなかったので吟子は男装して学校に通ったそう。周囲からは執拗な嫌がらせがあったという。そんな中で吟子は無事卒業して31歳の時に試験に挑む。江戸時代以前に医師の国家試験は存在せず、自ら医師と名乗るだけで十分だった。
しかし明治政府は1875年(明治8年)に医術開業試験を導入した。吟子は(明治15年かな?)満を辞して出願した。が、「婦女子に医師の免許を与えた前例がない」と退けられてしまう。内務省に1回、東京府に2回、埼玉県に1回、女性の受験を認めてくれるよう請願するが前例がないと言われて全て却下された。断られ続けること3年。

知恵その1:人を頼る


「私はただ未踏の女性の医者になりその道をこれから医者の道を進もうとするあとから来る女性達につなげていきたいだけなのに」と女学雑誌に寄稿している。困った時は人を頼る。吟子が尋ねたのは大物実業家で横浜港の埋め立て事業を行った高島嘉右衛門(かえもん)。高島はこうアドバイスした。「差し戻しの理由が前例なしならば過去の歴史に前例を探せばいい
前例探しには井上頼圀が協力したと伝えられている。井上は古書をかたっぱしからあたり、女医という文言を見つけた。それは、「令義解(りょうのぎげ)」天長10年(833年)の日本古代の基本法を記したもの。律令時代に女医が存在していたことが書かれていた。「女医ハ 十五歳カラ二十五歳マデノ素質ノ優レタル女性三十人ヲ選ビ安産術 小外科 鍼灸(しんきゅう)術ヲ教エル」(令義解八巻より)
前例があったことで内務省から受験が認められ、明治18(1885)年に吟子は試験に合格する。資格を持つ日本初の女性医師が誕生した。
平成でも医者が10人いると女性医師は1割くらいだという。大学病院を歩いていると看護師と間違えられることもあったという。(受験の問題が報じられたこともあった。あとアメリカンジョークでも医者が救急で運ばれてきた患者を見て「私の夫だ!」みたいなのあったよね。)ゲストの女性医師は何をやっても評価されなかったという。昔は頭が良い女は嫌われるからみたいなことを平気で言われるような時代だった。それを考えると吟子の時代は想像を絶する。


(山本八重(1845~1932)も上手に人を頼って目的を達成したそう。会津藩 砲術師範の娘で断髪・男装して会津戦争にも参戦したそう。同志社大学創立者の新島襄(1843~1890)と結婚。当時仏教徒だらけだった時代にキリスト教の学校を作るのは大変なことだった。)
「ダメだった時でもさらに努力するしか道はない。つい人や社会を恨みがちだけど、それでは状況は変わらない。」というゲストの方の言葉が妙に刺さった。

開業にも苦難が続いた。東京の湯島に明治18年5月産婦人科を開業する。女性医師の誕生は世の注目を浴びた。特に淋病や婦人病に悩む女性達には吉報。多くの患者が押し寄せたという。お金が払えない人にも診察して薬を出したそう。「医は仁術である」として社会的に立場の弱い女性を守ろうとする吟子は女性達から絶大な信頼を集めた。一方で医師が女性であることに一言言いたい男性患者もいたという。吟子は女性を取り巻く問題の根深さを痛感した。

知恵その2: 問題を解決するには根っこから


女性が淋病にかかる主な理由に遊郭の存在があると考えた。社会に訴えることにした。遊郭をなくすために大規模な演説会を行った。廃娼(はいしょう)大演説会。廃娼運動。
女性の性を貶める公娼制度をなくさなければと考え(日本キリスト教婦人)矯風会(きょうふうかい)に参加したそう。(矯風会は廃娼運動を進めるため1886年キリスト教信者によって創立された)
女性が自立するための提案を次々と行った。「大日本婦人衛生会」を明治20年(1887)に設立。育児、看護の基礎知識から感染症の予防法まで女性が家庭でできる病気予防の知識を広めていった。
さらに政治の世界にも。婦人参政権を獲得する運動に参加。最初の一歩として明治23年(1890)12月に帝国議会での女性の傍聴権を獲得。
新たな女性の生き方の旗振り役として活躍した。


「明治政府の教育政策は女性に差別的です。『市民=男性』であり、『市民=女性』であるのです。すべからく1日も早く大学その他官立学校の門を女性のために開き人材を満天下に募り」

(女学雑誌より)


女性が医師を養成する官立学校に入れること、医学部のある女子大を設立する必要があることを訴えていった。


「たとえどんな逆風を浴びようとも 女医1号である自分があえて先頭に立ってアピールしなければならない」

(女学雑誌より)


吟子の思いがやがて大きなうねりを呼ぶ。吟子に続く女性医師 吉岡弥生(彌生)が1900年に東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を設立。さらに同じ年、津田梅子が女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立。1901年日本女子大学校(現在の日本女子大学)設立。
おそらく使命感を感じていたのだろう。医学を学ぶことはヨーロッパを直接知ることになる。日本の遅れている部分がよく見えていたはず。
(問題の根っこに関連して。石川島人足(にんそく)寄場という、無宿者を対象にした自立支援施設で、火付盗賊改の長谷川平蔵が管理し、技術と教養を習得させて仕事を与えたというのがある。無法者になる前に支援するという根本の解決を図った)

吟子は再婚して北海道を開拓しながら新しい共同体(生活)を始めた。結婚相手はクリスチャン。